“風の旅人” として多くの伝説を作ってきたデュエルン・レーフェンス。 愛車 “轟カル号” と共に渡ったXX国からお伝えします。ジオポタ海外支部からの便り

2009年12月30日水曜日

今日のトピックス

ことし最後の便りです。
先週前半までマイナス20度前後を記録していた気温が水曜日から急に暖かくなり、前日から一気に20度も上がりました。
東京並みの気温です。
地球温暖化の影響でしょうか!

昨日から湿ったベタ雪が降り続いています。
ここは寒いのにはなれていますが、ベタ雪には人々も樹木もなれていないと見えて、道路は大混乱、空港も半日以上閉鎖されました。
樹木も重い雪にはなれていないので、雪の重みで枝が折れるもの、根っこから倒れるものなど続出しています。
キエフは寒くならないと良い天気になりません。

昼飯を食べに行くのも、長靴を履いて出たのに除雪してある車道しか歩く事が出来ませんでした。

2009年12月26日土曜日

二人のカーチャ

アパートの同じ階の3軒隣に住むセルゲイさんに年頃の娘さんがいることは以前、紹介しましたが、朝の出勤時間が私と同じころなので時々エレベーターホールで出会います。

このひとほど清純な感じの女性をこれまで見たことがない。
お父さんは金髪なのにこのお嬢さんは黒髪のストレートでクレオパトラのように肩のあたりでカットしている。
まだ挨拶を交わす程度ですが今度会ったら名前を聞き出そう!

街に出れば周りは美女だらけ、地下鉄に乗ってもあっちにもこっちにも美女、犬も歩けば美女に当たるなど、私のキエフ便りを読むとウクライナは男性諸君にとって天国のような印象を受けるかも知れません。
しかし、そのつもりでウクライナに来ると失望する可能性があります。
私の便りは話し半分どころか、話し10分の1ぐらいに聞いておいて下さい。

今月11日に日本商工会の忘年会がありまして、私も招かれて行って来ました。
テーブルの近くの人達と名刺交換をしました。顔ぶれは以下のような人達です。
三菱商事、丸紅、三井物産、ホンダ、トヨタ、三菱自動車、スバル、レクサス、パナソニック、日本大使館の書記官などなど----
彼らの話でもっとも印象に残ったのが、こちらに来る前にはウクライナは美女がごろごろいると聞かされて、実際に来て見ると全く美女などいないではないか、という発言です。
それも一人や二人ではなく、おおかたの一致した意見のようです。

我が職場でも同じような話は聞きました。
私以外はみな海外でのみ仕事をしてきたスペシャリストですが、ではどこが一番良かったか、という質問には東南アジア諸国を挙げる人が最も多い、次いで南米など。
なんとなく分る気もします。

2006年の設計段階ではピーク時に日本人スタッフが13人ほどいました。今でもいるのは私ともう一人だけです。
ウクライナはもうたくさんという人も何人かいました。このような過酷な環境で仕事をするには特別手当を貰わないと合わないと主張する人もいました。

ウクライナは天国どころか地獄かも知れない。
私はその地獄に一目惚れしてしまった。
そのウクライナでは平均的な器量の二人のカーチャですが私にとってはとても可愛い存在です。

2009年12月23日水曜日

きょうのスナップ

日本も寒波襲来のようですね!

きょうのスナップは今朝のオフィスの窓です。
長さ1m近くに育ったツララが見事!

今朝、出勤時の気温はマイナス17度、明日からは東京並みに暖かくなる予報です。当たると良いね!

2009年12月20日日曜日

きょうの風景

最近毎日雪が降っています。
雪の日は暖かく、マイナス13〜15度程度です。きのうまでの粉雪に代わり、きょうは日本のスキー場のような雪に変わりました。

綺麗な雪印の結晶をしています。気温が高くなったようです。窓の外に置いた温度計もマイナス10度を指しています。
この程度ならば雪が固まるかも、試しましたが、やはり固まりません。子供達に大きな雪だるまを作ってやろうかと思いましたがだめです。もっと気温が上がらないと雪だるまも、雪合戦も出来ないようです。
マイナス25度以下のときの雪は発泡スチロールを粉にしたようなものでさらさら状態、重量がありません。ダイヤモンドダストが見られます。

今日の写真はアパートの窓からの風景です。クリスマスツリーを飾るモミの木の枝を買って帰る人を見かけます。

2009年12月16日水曜日

天皇誕生日

こちらは先週からマイナス10度以下の世界に突入していまして、週末にはマイナス20度台の予報が出ています。

きょうは日本大使館主催の天皇誕生日と天皇即位二十周年を祝うレセプションが開催されました。

会場のホテル前は黒塗りの外交官の車をはじめ、招待客の車でごった返していました。

会場は意外と狭く、芋の子を洗うような混雑ぶり、
両国の国歌がそれぞれの歌手により歌われた後、大使が挨拶して、その後は会食と歓談に入りました。

1月の大使公邸で開かれる新年会は日本人だけなのでもっと料理が味わえます。

ツーショットの写真はユーリヤさんです。
お嬢さんの具合はだいぶ良くなったそうで、新インフルではなかったのかも知れません。

このレセプションでロシア小咄を地で行く面白い出来事がありました。

日本文学をロシア語やウクライナ語に翻訳して、日本文化をロシアやウクライナへ広めている学者がいまして、その功績に対して日本政府から勲章も授与されました。
その学者がこのレセプションにも招かれていまして、最近の村上春樹の小説を翻訳した本を出版しました。(日本の事情に疎いので私は分かりません) その本を二冊も持った婦人がいた。我々は彼女が彼の熱烈な愛読者と思い、仲間が教授に彼女の本にサインするように求めた。
何故か教授は拒否する。
日本では有名人は愛読者にサインする習慣があることなど話しして説得したけれども、頑なに拒否する。

「私は妻にはサインしません」 なんとその婦人は教授の奥さんだった。

2009年12月14日月曜日

別荘ライフ

今週は予報どおり寒くなりました。
きょうの最高気温はマイナス8度でした。
最低気温はわからない
来週の後半はマイナス18度になると地元の天気予報には出ていました。

土曜日は予定どおりユーリヤさんの別荘に行き、一泊してきょう帰ってきました。

私のアパートのある地下鉄路線の終点の駅”セレッツ”に迎えにきてもらい、いったんユーリヤさんのアパートに行き、荷物を積んで出発。

12歳になる娘さんは風邪を引いて熱があるとかで、家に残る事になり、
隣に住む義母に面倒を見てもらうことになりました。
後に電話のやり取りで新型インフルに感染したことが分かり、あまり落ち着かない雰囲気になってしまい、残念!
翌朝には熱も引いたとかで一安心、予定を早めて午後2時に帰宅の途につきました。

ユーリヤさんの別荘はキエフの北西約50キロのところにあり、周りを森に囲まれた一団の別荘村にあります。

キエフの郊外や周辺にはおびただしい数の別荘があります。
キエフには別荘を持てる富裕層がたくさんいると言う訳ではなく、歴史的背景があります。

ソ連時代、都市の食料事情が大変悪化していた時期があり、都市の住民に自給自足をさせる目的で田舎に土地を与え、農作物の栽培をさせました。
一区画は約600平方メートルです。敷地内には極めて小さい建物しか建てることが許されず、トイレや浴室も認められなかったようです。
ウクライナ独立後そこを別荘として利用している訳です。
もちろん建物は建て替えています。昔の小屋はそのまま残して、納戸などに使っているお宅もありました。

ユーリヤさんの別荘はご主人の両親が建てた物で、この一画は全て教員関係者ばかりだそうです。
ユーリヤさん一家は毎週末必ず別荘で過ごしていて、夏休み、正月、クリスマスも別荘で過ごすのだそうです。

間取りは2LDK、2階には屋根裏部屋がありますが、まだ未完成。
インフラは上下水道と電気、電話、ガスです。
暖房は薪のペチカとガスと電気を使っていました。
部屋の暖房は不在のときも設定温度を下げて付けっ放しだそうです。

ご主人が日曜大工で作ったサウナが自慢で、昔の小屋を増改築したものです。
ずいぶん久しぶりにサウナに入りました。
サウナとペチカの薪は樫の木で近くの森から倒木などを運んで使います。
飲料水はやはり近くの泉で汲んできます。

今度は自転車に乗れる季節に誘ってもらうことにしました。
近くには森以外にきれいな湖があるそうです。

写真はジオポタML初登場のユーリヤさんとご主人のタラスさん、生後4ヵ月のステファンちゃん
それと巨大な愛犬(名前は失念)これまでこんなに私になついた犬はいない。

後日談:貧乏な人は極めて安い金額で別荘を手放していて、現在所有しているひとはやはり経済的に余裕のあるひとのようです。)

2009年12月1日火曜日

きょうのトピックス

きょう日本大使館から天皇誕生日を祝うレセプションの招待状が届きました。
日時が12月15日になっている。たしか天皇誕生日は12月23日ですよね、なぜ一週間も早めて祝賀会を行うのかわかりませんが、
もしかしたら当日は大使が皇居の宴に出席していて不在なのかも知れませんね

1月後半には大使公邸で新年会をやるのが恒例になっています。私も2006年にお招きいただき、寿司と高級な酒をたらふくご馳走になってきました。

2009年11月23日月曜日

ウクライナの名前

10月後半は本当に寒かったですが、11月に入り天気は悪かったものの、零度以下に下がる事はありませんでした。
今週に入り天気も快復し、きのう、きょうは東京並みにポカポカ陽気に!
最低気温は2度ぐらい、きょうの最高気温は8度まで上がりました。

> >ウクライナでは同名の人がとても多いようですが、日常名前を呼ぶ時はどうしているんですか?
> >基本は性ではなくて名で呼ぶんですか?
> >韓国では同性がとても多いので、フルネイムで呼ぶことが多いと聞いています。
> >ウクライナでもフルネイムでしょうか?
> >それとも性はたくさんあるのかな?

ウクライナは(ロシアも同様)名前の種類が極めて少ない、正確に言えば親が付けたがる人気の名前が集中していると表現した方がよいかも知れません。
時代により流行も変わります。
オリガさんの学校時代、30人クラスでナターシャ(正式名ナターリヤ)が6人もいたそうです。
女生徒15人中、6人も同じ名前はすごい確率です。

ウクライナでは誰でも名(ファーストネーム)で呼びます。姓はパスポートや公式文書でのみ使われます。名も正式名ではなく短縮形や愛称で呼ぶのが一般的です。

たまに正式名で言われると誰の事か分からなくなります。
前に紹介したターニャの正式名は”タチアナ”ですし、友人のタマーラは正式な名前で、日常的には”トーマ”です。タマーラと呼ばれるとビクッとするそうです。 なぜならば学校で悪い事をして先生に叱られるときなど、悪い時にしか正式名で呼ばれないからだそうです。
同じ名前が多いからといってもフルネイムで呼ぶことは極めて少ないと思います。
同じ名前でも短縮形、愛称の類いがたくさんあり、カーチャの例だと13種類もの呼び名がある。
日本の「○○ちゃん」に相当するのが「○○チカ」です。

2009年11月13日金曜日

チュニジア後の近況報告

毎日、朝から晩まで暗いです。そして寒い!

ウクライナの晩秋、冬、初春はこんな感じで半年続きます。
夏と同じ時間働いても2倍以上働いた気分になります。

これからの健康管理(精神面も含めて)が重要になってきます。
ウクライナや北欧の人はこういう季節の過ごし方をわきまえているでしょうが、太陽の国の日本人にはちと辛い。
ときどき暖かい、明るい国へ逃避できると良いのですが。

このゆうつな季節は今回で三度目になりますが、最近新発見しました。毛皮のコートを身にまとっているときがウクライナの女性が最も魅力的に見えることを発見しました。
職場の女性たちも一段と豪華に見えるし、日曜日の晩に我が家遊びに来たカーチャTとタマーラの二人もまるで貴婦人のように眩しく輝いていました。

来年の話をすると鬼に笑われる?
仕事を抱えているのでなかなか思うように行動できませんが、来春はカーチャTとヨルダンへ、カーチャPとはバイカル旅行を計画しています。
バイカルに住むカーチャPの親戚一同みなその気になって我々の来るのを首を長くして待っているとのこと。
バイカル湖畔をサイクリングするのが夢です。

2009年11月12日木曜日

チュニジア報告最終回<Private Beach>

ホテルの前はプライベートビーチです。遠浅の海岸が続いています。

ビーチの砂はサハラ砂漠の砂のようにさらさらと細かい
Kemerと同じ地中海なのにこちらの塩分濃度はすごく薄い、潮流の関係でしょうか?

トルコのKemerはロシア人に混じってトルコ人の客もいましたが、ここは外国人ばかり、それも熟年が多いから写真の被写体になるようなビキニ美女はあまりいませんでした。ファッションモデルのようなロシアン美女がごろごろいたKemerとは対照的です。

現代のチュニジアはむかしカルタゴを築いたフェニキア人とは民族的な繋がりは薄まり断絶しているようです。国民の98%がアラブ人です。

エキゾチックな美女の写真を期待していた方にはごめんなさい。写真に収めるチャンスがありませんでした。 ドキッとするような美女は時々見ました。学生など若い層は概ね綺麗でした。

写真が撮れない理由は三つあります。
我々の近くには外国人ばかりでアラブ人の観光客がまったくいないこと。
スカーフで覆っている女性の写真を撮るということがどういうことなのか分からないこと。
言葉がまったく通じないこと。

チュニス美女に代えて、雲の上の夕陽の写真で我慢してください。

2009年11月11日水曜日

チュニジア報告その11<Hotel Mahadia Palace>

Mahadiaは海のリゾート地と言っても海に面してリゾートホテルが十数軒並んでいるだけで、トルコのKemarとは比べ物にならないくらい小規模です。

五つ星ホテルの” Mahadia Palace ” この町で最も豪華そうに見えました。
4、5階建ての棟がコの字型にプールを囲んで、海に向って建っています。
ロビー階とプール、ビーチは一層分のレベル差があり、レストランはプールサイドに面した下の階に有ります。どこも非常に明るいのが印象的でした。

レセプション以外、英語はまったく通じません。フランス語だけです。
彼女は才媛だからフランス語ぐらい喋れるのかと思いきや、まったくだめで私同様、挨拶とメルシーぐらいしか知らない。

チュニジアはフランスの植民地だったので、フランスの影響を強く受けているはずで、料理も美味しいはずと期待していましたが、このホテルの食事はその期待にたがわず、極めて美味しかったです。
毎日、朝、夕、豪華な食事を堪能しました。この点についてはトルコのKemarとは雲泥の差があります。

しかし、このホテル以外で供された食事は格別のものはなかった。
チュニジアはイスラム国であり、基本的に酒は飲めない。レストラン以外でアルコール類を求めるのは難儀そうです。
ビールはたった一種類の銘柄しかない、不味いというほどではないけれども旨くもない。選択の余地がないからこれを飲むしかない。
ワインはウエイターの薦めにしたがって赤、ロゼ、白を飲んでみましたがどれも共通した薬ぽい味が気になった。 アルコール類は呑ん衛の国に限る。

ホテルの客層はヨーロッパ各国の熟年層が多い、最も多く耳に聞こえる言語はドイツ語です。外国語放送のテレビチャンネルもフランス語とイタリア語が二つずつ、ロシア語、ポーランド語が一つ、に対してドイツ語チャンネルは五つもある。Kemarはロシア人ばかりでしたが、ここはドイツが優勢みたいです。

2009年11月10日火曜日

チュニジア報告その10<Friguia>

チュニジア旅行の最終日はMahadiaとTunisの中間にあるFriguiaという動物園に行ってきました。

この日の午前中はホテルの近所を散歩して過し、1時にツアーのマイクロバスが来て、出発。動物園が目的ではなく、動物園に併設しているレストラン・シアターで民族舞踊を見るのが主目的です。

1時間半走って動物園に到着、開演の5時まで動物達を見て歩く。
自然の起伏をうまく利用した、良く出来た動物園で主にアフリカの動物を飼育している。

5時になりやっと開演、円形の建物の中心に円いステージがあり、それを中心に放射状に長い食卓が囲んでいる。
ロシアのツアー、ドイツのツアー、イタリアのツアーというようにツアーごとにテーブルが割り与えられる。
マイクロバスに乗っていたのは10人たらず、ここに来て見るとロシアの客が30人以上はいる。
Mahadia以外からも来ているようだ。

突然、黒人による強烈な太鼓の演奏から始まった。同時に飲み物や料理が運ばれてきた。

ワインやジュース、数種類のサラダ、スープ、メイン料理、フルーツなど、一つのテーブルでシェアする方式です。
トルコのKemerのときは先に食事タイムがあり、食べ終わってからショーが始まる方式でしたが、ここでは食事とショーが同時進行です。
どちらが良いかといえば後者の方が時間の短縮になる。

黒人による太鼓の演奏に合せたアップビートの踊りとアラビアの美女による艶かしい踊りとが交互に出てくる。
フィナーレは出演者総出に客も混じってディスコのようになって踊り狂い、あっという間に2時間半の楽しい
ショーは終わりました。

2009年11月9日月曜日

チュニジア報告その9<アトラス山脈>

サハラ・ツアーの締めくくりはアトラス山脈です。

モロッコ、アルジェリア、チュニジアにまたがる山脈で、昔学校の地理の時間に褶曲山脈の典型的な例として教わったような記憶があります。
そこをきょうはランクルに乗って登ります。

草木のまったく無い赤茶けた剥き出しの岩山が延々と連なっています。
巨大な竜が横たわっているようにも見えます。
飛行機の窓からも、雲の上に突き出た山脈を見ることができます。

アトラス山脈のふもとは野生のラクダがたくさん生息していて、道路にはラクダに注意の道路標識がたくさんあります。
昔行ったラップランドの道はトナカイ注意の道路標識が数多くあったのを思い出しました。

山の中腹にある駐車場までランクルで登り、そこからは徒歩です。
山脈は一重ではなく、幾重にもなっていることが分かります。
周りはマッ平らでここだけ突然隆起して山脈を形成しているので、上からの眺めは見渡す限り延々と大地が広がっている。

バスの待つ地点までランクルで戻り、バスはしばらく走ったあと昼食のレストランへ、食事の後は途中トイレ休憩一回と土産物屋に一回寄り、あとはひたすらMahadiaへ向けて帰途の道。窓の外にはまだ延々とアトラス山脈が続いている。

2009年11月8日日曜日

チュニジア報告その8<サハラ砂漠-3>

”四駆で砂漠を爆走”

塩の海の後はバスからランクルに乗り換え、砂漠を爆走しました。
傾斜40度ぐらいの斜面を登り下り、キャーキャー絶叫マシーンさながらです。
しばしサファリラリーの擬似体験をしました。

サハラ砂漠の砂の上で寝てみたい、というKatyaの夢も叶える事ができました。
砂はさらさらパウダー状態で砂時計にちょうど良いと思いましたが、何故か砂時計の土産品を目にしませんでした。

途中、映画スターウォーズのロケをやったというセットを見に行きました。
「スターウォーズ」なる映画は名前は知っていましたが残念ながら見たことがない、セットの雰囲気からすると砂漠で撮影するのはピッタリのような感じはします。

この後ランクルで今回のショートトリップのフィナーレに向います。

2009年11月7日土曜日

チュニジア報告その7<サハラ砂漠-2>

朝の4時にモーニングコールで起こされ、(と云うか、昨夜は砂漠の興奮から殆んど眠れなかった)
4時30分から朝食、5時にはホテルを出発、目指すは塩の海です。
真っ暗な道を走行中は殆んど寝ていました。
どこまでも真っ直ぐな道を延々と走ってやっと止まった。寝ぼけ眼でバスを降りてみると外は寒い!
薄明かりに見える風景は何も無い荒涼としたマッ平らな白い大地、そう”塩の海”です。


昔の大海原が干上がって砂漠化したところです。
表面は砂と塩に覆われています。

彼女の拾い集めた塩の半分は我が家にあり、何かの料理に使おうと思っています。
100%天然の塩ですから。
ここで見た日の出は感動的なくらい綺麗でした。

2009年11月6日金曜日

チュニジア報告その6<サハラ砂漠>

やっとサハラ砂漠の入口に到達しました。
この旅で最も期待していた砂漠が目の前に広がっています。
感無量!

ここからはラクダに乗って1時間のポタリングです。
折角だから砂漠の民の装束になりました。
気分はまさにアラビアのロレンス。

ラクダは馬のようなあぶみがないので、バランスをとるのが難しい。とくに立ち上がるとき、しゃがむとき、前につんのめって振り落とされるような恐さがあります。
普通に歩いているときも前後の揺れが大きく、カメラを操作するのが大変、ファインダーを覗く余裕がないので、めくら写しです。

ラクダの背に揺られて、高いところから眺める砂漠の風景は最高!
違う世界、違う時代にスリップしたような変な気分になってきました。

一人の御者が4頭のラクダを操っている。
最初はおっかなびっくりだったものの後半はすっかり慣れて、御者なしで自分で手綱をとって歩んでいました。
一団からは、いつしかトロイカの歌が聞こえてきた。サハラ砂漠でラクダに乗ってトロイカとはミスマッチですが、いかにもロシア人らしい、

後半になり前方からドイツ語とイタリア語の大群に遭遇!
なにやらラクダの大群を使ったスペクタル映画の撮影に紛れ込んだような気分になります。

今夜の宿は砂漠のオアシスにある"HOTEL LE SAHARIEN PARADISE"

客室はひと部屋、ひと部屋独立した建物が広い敷地に点在している。それらを結ぶ遊歩道にはオアシスの樹木と花が咲き乱れている。文字通り"PARADISE"

暗がりには野生の孔雀が姿を現した。
このホテルに夜着いて、明日の早朝暗いうちに出発するのは勿体無い気がしてきた。
せめて明るいときに写真の一枚も撮りたいところです。

2009年11月5日木曜日

チュニジア報告その5<砂漠の家>

サハラに向う道の両側は見渡す限り、延々とオリーブ畑が続きます。眠くなる風景です。

チュニジアは以外にも石油があまり取れない。工業製品と農作物の輸出と観光収入が大きいようです。食料自給率は100%を超えています。
オリーブの生産高は小さい国ながら世界第5位、その他目立つのはロシア語でフェニキィー(英語でなんと言うのかわからない)ヤシ科の樹になる実で味は干し柿に似いてる。
それとザクロ、日本でザクロはただすっぱいというイメージしかないですが、ここのは大きくとても甘い!

オリーブ畑が終わるとチョボ、チョボと低潅木が生えているだけのなだらかな山の連続に風景が変った。

このあたりの住まいの造り方が面白い。
高低差のある土地を利用して、まづ竪穴を掘り、ここが中庭になる。


この竪穴から必要な部屋数だけトンネル状に横穴を掘り、入口に粗末なドアを取り付ければ完成です。

そんな一軒の住宅を見せてもらった。観光客に公開することで収入を得ているようです。

その後昼食を供されたレストランも同じつくりで、我々の他にイタリアの団体さんが入っていました。

2009年11月3日火曜日

チュニジア報告その4 <El・Djem>

Mahadiaのホテルに籍を置いたまま、一泊2日のサハラへの旅に出ました。

相変わらず朝早くホテルをバスで出発して、最初に着いたのが<El・Djem>ローマの競技場遺跡です。
世界で四番目の規模だそうですが、ローマのコロッセイム以外にどこにあるのか私は知らない。

ローマのコロッセイムはアリーナの床がなく、奈落の底が直接見えていたように記憶しているが、ここはアリーナの床があり"せり" の部分にはグレーチングが嵌めてありました。上から奈落の底を覗くことも出来るし、奈落の底から地上を仰ぎ見ることも出来ます。

我々は例によってロシアのツアーですが、いろいろな言語のツアーがひしめいている。

ガイドはチュニス観光の時と同じ人でした。発音は少しおかしいけれども、話しはとても面白いということです。
バスとドライバーは初日に空港に迎えに来たひとと同じ、これで3度目になるのですっかり顔なじみ。

2009年11月2日月曜日

チュニジア報告その3 <Tunis>

土曜日の早朝4時にモーニングコールで起こされ、4時30分から朝食、5時10分にはホテルの車寄せにバスが到着、このようにしてチュニス観光が始まりました。

チュニスとはもともとフェニキアの女神の名前で、それを首都の地名にし、国の名前にしているのでチュニジアはフェミニストの国といってもよいと思います。

さまざまなシーンで女性に寛大な社会らしいです。
例えば交通違反しても、それが女性ドライバーならば見逃すそうです。
もし、いじめられている女性がいたらチュニジアに行くべし!
ジオポタにはそんなか弱い女性はいないね(笑)

最初に訪れたのはアントニオの浴場、海に面した絶景の場所にあり、ローマのカラカラ浴場よりもロケーションが良い。

そのあと白と青の街とよばれている一画を見に行く、壁は真っ白、ドアや窓枠など壁以外の部分は青く塗られている。

翌日の日曜日に行われる大統領選挙のポスターが目に付く、一番右が現職の大統領で再選を狙っている。結果はどうなったか聞いていない。

海に面した旧市街と新市街の間には人工の海があり、その真ん中を一本の道路と線路が真っ直ぐ延びている。
この人工の海は景観のためだけに作られているそうで、他になんの機能もない。
道の両側に延々と水面が続くばかりでさほど景観に寄与しているとは思えない。

新市街はフランスの植民地時代に建設されているので、フランス風、ベトナムのホーチミンに似ている。

最後に博物館に行った。 ここではじめて日本人の老夫婦に出会った。

2009年11月1日日曜日

チュニジア報告その2 <Mahadiaのバザール>

どこの国へ行っても市場を覗くのが好きです。その国の暮らしぶりが垣間見えるからです。
街で青空市場をやっていると聞いたのでさっく行って見ました。

ホテルからタクシーで5ディナール(約360円)
チュニジアのタクシーは全国どこでも黄色に限られているので非常に分り易い、メーターは付いていない。
乗る前に料金を確認してから乗る。
バザールは大変な賑わいでした。日曜雑貨、衣類、食料品、家具、土産品などで特に変わったものは無い。
お腹が空いたので何か食べようとレストランを探したが、まともなレストランは見つからない。ビールと何か食べ物を買って、ホテルのベランダで食べようという事になり、ビールを探したが売っていない!
そう、ここはイスラムの国、基本的に酒は飲めないのでした。
ホテルに戻り、ルームサービスでピザとビールを頼んで、ベランダで昼食、午後はビーチで日光浴、風が少し冷たい。

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