“風の旅人” として多くの伝説を作ってきたデュエルン・レーフェンス。 愛車 “轟カル号” と共に渡ったXX国からお伝えします。ジオポタ海外支部からの便り

2009年2月28日土曜日

フエ田舎道ポタ

6週間ぶりにホーチミンでのんびりした週末を過ごしています。

8ヶ月近く愛車のメンテナンスをしていないし、その間三回も海岸を走っているのでチェーンやワイヤーに錆びが出てきました。
オーバーホールしたいけれども応急処置用の工具しかもって来ていないのでそれもできず、せめてチェーンぐらい洗いたい。
ここで灯油は手に入りそうにないけれども軽油ならばある。あとはパーツクリーナーを探してきて。

先週念願の田舎道ポタをやってきました。
ホーチミンから北へ1050キロのところにある古都フエです。
フエについてはジオポタリング海外編ベトナムで詳しく紹介されていますから、ここでは触れません。

一日目は街ポタ、二日目に郊外らあるミン・マンという廟まで田舎道ボタ。

ホーチミンから来て見るとここの人々の暮らしはさらに貧しいという感じが強く受けます。ベトナムも都市部と地方の経済格差が大きいようです。周りに居るベトナム人も地方出身者が多い、そういえば職場の秘書もフエ出身です。彼女は顔立ちがうりざね顔をしていますがフエでは似たような顔立ちのひとをたくさん見掛けました。

二日目、フォーン川の上流にあるミン・マン帝廟までポタリング。ホテルで聞くと道程20キロとのこと、夕方の飛行機までちょうど良い。

車もバイクもほとんど通らない田舎道をしばらく走る。周りは田畑、村が近づくと道の両側は熱帯樹林で覆われる。
そのうちこんもりした山に差し掛かり、山の上は墓地になってるのでした。アップダウンあり、ダートあり、急カーブあり、牛の群れに遭遇したりしてやっと茶店や土産品店が並んでいるにぎやかな道に出た。

一軒の茶店に入ってココナツでのどを癒していると、女将さんが出てきてここはトゥドゥック帝廟でぜひ見て来いと強く勧められた。市内の阮朝王宮よりも良かった。起伏のある松林の中に築かれた廟で、戦争による被害もまったく受けていないようでした。

先ほどの女将さんにここからミン・マン帝廟までの抜け道を教えてもらった。

車もバイクも通れない、自転車でしかいけないという説明の”バイクも”というところを軽く聞き流していた。走り出してはじめてその意味がわかった(笑)
散々苦労してミン・マン帝廟にたどりついたら、最も重要な部分が修復工事中で入れなかった。
それにしても暑かった。過去これほど暑いところを自転車で走った記憶が無い。

写真説明
01 王宮のすぐ近くの川で洗濯をするおばさん(王宮は旧市街にあり、周りは貧しい)
02 水上生活者の群れ
03 ベトナムらしい日常り風景
04 ミン・マン帝廟の近くで出会った親子、このオッサンあと三人の子供がいるそうです。戦後の日本と同じ
05 トゥドゥック帝廟で皇帝の衣裳を着て写真を撮ってくれるサービスがあり、この奥さんは終始恥ずかしがっていた。
フエは外国人観光客も多いがそれ以上にローカルの観光客も多い。

2009年2月26日木曜日

ダーウィン5

アボリジニ(先住民族)について:
勉強不足でアボリジニについて何の予備知識もないが、開拓時代は動物のように狩りの対象にされていたこともあったらしい。
現代のオーストラリア社会でどのような位置づけなのか分らない。

最初に見かけたときは驚いた、アフリカ系黒人とはまったく違う、精悍さや容姿の美しさがなく、こう言っては失礼ながら、原始人を想わせる。
街の至る所で会うことができる。その中の一人に2ドル恵んでくれと、施しを要求された。もちろんあげなかった、彼らは政府から手厚い保護を受けているはずだから。

シーシェパードについて:
オーストラリアというと最初にイメージに浮ぶのがシーシェパード(日本の調査捕鯨に反対して過激な抗議行動を繰り返しているグループ)です。
いつだったかホーチミンの空港で搭乗待ちの間に大型画面の映像を見ていたら、たまたまオーストラリア観光の映画をやっていて、シドニー湾の中でたくさんに鯨が泳いでいて、船のうえから、橋の上から、オペラハウスの前から大勢のシドニーの人々がホエールウオッチングを楽しんでいる光景が映し出されていた。
我々日本人が多摩川や荒川に入り込んだアザラシのタマちゃんを可愛がるように!

子供のころ貧しく、ステーキといえば鯨肉でした。おふくろは出来るだけ美味しく食べられるように味付けにいろいろ努力していたようですが、それでも不味いものは不味い。
若い頃、飯やで最も安いおかずは鯨のベーコンでした。私にとって鯨の記憶はつねに貧しさが付きまとう。

調査捕鯨で捕獲した鯨は何処へ流れているのか不透明な部分もあるし、捕獲しなくとも調査は出来そうに思う。
将来、食料危機がきて再び鯨を食べなければならない時代のこないことを祈るのみですが、もしも食料危機が来たらそのときに捕鯨を再開すればよい。
ダーウィンの海を眺めながらそんなことを考えていた。

写真説明
1 マリーナ近くの戸建て住宅、徹底して贅沢!
2 ホテルの近所にある小さな湖、人々がカヌーやバーベキューで楽しんでいた。この湖の200mぐらい手前は、もう海岸線です。
3 街の中心部のアパート、なかなか快適そうです。
4 ボルネオで有名なバオバブの樹
5 ダーウィンの海に沈む夕日です。

2009年2月24日火曜日

ダーウィン4

ダーウィンはいま雨季なので猛烈に蒸します。
ホーチミンのような燃えるような暑さはないけれども、とにかく湿度が高い。つねに汗が滴り落ちてくる。

1日目の午後に1時間ほどシャワーのようなスコールが来た。2日目はときどきにわか雨に降られた。
外から、内からびしょびしょ状態!

朝早くからロードはたくさん走っています。
小径車はまったく見なかった。BD−1の注目度もいまいち関心が薄い。

自転車道路は曲がりくねり、適度にアップダウンあり、速度は20キロに制限されています。だからロードは車道を走っている。

イーストポイント(ダーウィンの西にあるのになぜイーストなのか不明、軍の呼び名かも知れない)というところにある軍の施設で何かのイベントをやっていた。アーミー・バンド・ターウィンという軍人さんのバンドが演奏をやっていて、二人の女性兵士がABBAの曲をメドレーで歌っていた。なかなか上手だったけれども、迷彩色の軍服では色気がない。

海岸は砂浜と岩が剥きだしのところがある。どちらも遠浅です。
二日間波はほとんどなかった。ニャチャンに比べると海の色はさらに白っぽい。

ダーウィン3

空港から乗ったタクシーはなかなか優れもので、車椅子の客が車椅子に乗ったままリヤゲートから乗り込める工夫がしてあり、自転車をその部分に乗せるとぴったりです。

それにしても道が綺麗、シンガポール同様に修景も素晴しいが、道路の造りも立派、舗装の凹凸がまったく無い。

予約したホテルはカレン・ベイというヨットとプレジャーボートのマリーナの一角にあり、正確に言うとホテルではなく、長期滞在型のホリディアパートです。
チェックイン時間を聞くと午後2時だというので、取りあえず自転車を組立てることにした。
通り掛かりの人が「ここで自転車屋さん開業かね!」とジョークを飛ばしていく。

そうしているうち、10時には部屋の用意ができるとのことなので、ウォーミングアップを兼ねてマリーナ探索に、とにかく人がいない!
街の津々浦々まで人とバイクがひしめき合っているベトナムから来ると異次元の世界のようです。
一軒のカフェテラスを見つけて朝食に在りついた。

人口11万人にしては、街が広く、道路網も充実している。田舎の雰囲気はまったく無く、大都市の一角を切り取ったような印象です。
人口密度が極めて薄いにもかかわらず、街の隅々まで美しく保つためには相当のエネルギーと費用が必要で、その経済力はどこから来るのでしょう?

ダーウィンは陸と海とが複雑に入り組んでいるので、どこに行っても海に面しているような感じをうけます。
海岸線に面して自転車道路が作られていて、そうでないところも自転車レーンがあります。

最も車も少ないからどこでも気持ち良く走ることができまが。

オーストラリア人の印象
1.極めて親切:道i迷って地図を広げていると必ず駆け寄って来て教えてくれる。
2.道で出会うと挨拶をする。
3.ベトナム人は口を開けば「この自転車はいくらした」であり、オーストラリア人は「どこから来た」が最初の質問、私はベトナムから来たと答えている。
ご存知のようにダーウィンは1942年2月19日に日本軍の艦載機により猛爆撃を受けたところで、真珠湾攻撃よりも大規模で激しかったようです。
その記念日の直前だったので、日本人と言いにくかった雰囲気がありました。
4.刺青をしている人がやたらと多い、女性も足首などに小さいのをしているひとがけっこう居た。
5.一般的に白人は日本人以上に禿げ易い。かれらは薄くなると潔くスキンヘッドしている。これは参考になった。

食べ物のこと
オーストラリアはイギリスからの移住者で出来た国だから当然食べ物は美味しいはずがない。
ホーチミンのステーキハウスで食べたオーストラリア牛がすこぶる美味しかったので、ダーウィンでも食べてみた。肉は柔らかく、マッシュルームのステーキソースも素晴しく美味しく、マッシュドポテトも美味しかった。しかし肝心の肉の味はいまいちであった。

写真説明
01  泊ったホテル、左端がそのホテルです。地下2階、地上8階私の部屋は6階でした。
地下階は駐車場です。こんなに国土が広い国なのに駐車場を全て地下に設けて建物のまわりは植栽にするのは発想がリッチです。
ゆるいカーブを画いた向いあった廊下に面して部屋があり、あいだは最上階に屋根が架かった吹き抜け空間になっいて、1階はホールになっている。風が通り抜けて気持が良い。1階にはプールも備わっていた。
部屋は2部屋続き部屋にできる間取りで、ベランダは隣室と共用、アイロンやジューサー食器などがそなわっているがキッチンがなかった。おそらく隣室側にあるのかも知れない。
ベランダからは海が見える。
02    マリーナの風景
03  マリーナのカフェテラス、船を眺めながら朝食をとった。
04  空襲の記憶を留めるための記念碑

2009年2月22日日曜日

田舎道ポタリング

ベトナムに来て初めて初めて、田舎道を走ってきました。

灼熱のフエを76キロ走破!

2009年2月20日金曜日

ダーウィン2

機内ではほとんど眠れず、もうろうとした頭でダーウィン空港に降り立ったら、パスポートチェックで係官からいきなり質問攻め、後ろに並んでいる人を別なブースに移動させてじっくり尋問! しばらくして、席を離れ、後ろにいた別の係官と二言、三言話してから戻ってきてやっと入国のスタンプを押してくれた。
やれやれ、やっと肩の荷が下りた

安心したのもつかの間、これは始まりに過ぎなかった。後ろに控えていた別の係官に呼び止められ、更にしつこく尋問、やっと開放されてバゲージクレイムへ向い自転車を入れたダンボール箱を受け取る。
この部屋では麻薬犬が匂いを嗅ぎ廻っていた。

税関に進む前に、そこに居た係官にパスポートと入国カードをチェックされて、すぐさま別のドアに入れられた。そこにはXrayと大きな作業台が据えてある。
Xray検査を通した後、荷物を全て台の上に取り出してチェックを始めた。わざわざ白い薄い手袋をはめて、いかにも仰々しい。
荷物検査は入念を極め、あらゆる物を調べた。特にノートやメモ帳を詳細に見ていた。これらにはフライトスケジュールやホテル名、アドレス、為替レートなど旅に関するメモで、他人に見られて困るものは何も書いていなかった。
次にデジカメに残っている画像も調べられた。

うかつにも相当枚数の二人のカーチャの写真を消去しないままにしていたので、それを見つけた係官はこの人は誰かと聞く。友達かというから「そうだそうだ」答えておいた。彼女はロシア人で云々などと余計な事を言ったら新たな疑念を生みそうなので。

自転車はこの係官はあまり詳しくないようで、わざわざ別な係官を連れてきて調べさせた。タイヤの中などを入念に調べていた。
小一時間ほどかかってやっと無罪放免になった時は、乗客はとっくに立ち去り空港は閑散としていました。出国のときもしつこく聞かれましたが、どうやら麻薬密売人の疑いを掛けられたことは間違いないようです。

週末に夜行バスで何処かへ走りに行って、一泊して帰ってくるのは我々ジオポタではごく普通のことですが、オーストラリアではその常識は通用しない。
わざわざ外国から飛行機で飛んできて、一泊だけで帰るのは、彼らにとって異常な行動であり、故に怪しい?何か悪いことをしに来たに違いない、そう判断したようです。それに私はベトナム在住であり、さらに怪しい。

休暇で来たのならば普通はいくら短くても1,2週間は滞在するもの、彼らはそのように思っているようです。スケジュールが最大の疑念でした。
オーストラリアとニュージーランドは入国審査が厳しいのでご注意!

タクシーでホテルへ、走り出して間もなく素晴しい景色に、空港での嫌な出来事が吹き飛んでしまいました。

2009年2月18日水曜日

ダーウィン1

ダーウィンはオーストラリア、ノーザンテリトリーの首都で人口約11万人の都市です。
進化論のダーウィンが立ち寄ったことからこの地名が付いたと、書いてあるものもありますが、実際はそのような史実はなく、当時著名な生物学者の名前にあやかって命名したようです。

ダーウィンはいま雨季にあたり、雨が多い、大規模な山火事が発生した東部とは気候が違います。
なぜダーウィンかといえば、ホーチミンから直行便があったからです。
安いチケットを売りにしているジェット・スターです。

ジェット・スター航空はカンタス航空の子会社なのでクルーは全てオーストラリア人でした。
オーストラリア美人などまったく期待していなかったけれども意外にも美女が多いです。帰りの便のチーフ客室乗務員はハリウッド女優のようなブロンド美人でした。

飛行機はエアバスA320、真ん中通路の左右に3列づつ全てエコノミー席で、前から後ろまで視線を遮るものはなく、巨大なバスのような雰囲気です。
シートはレザー張り、ディスプレーはなく、床はビニールシート貼り、天井収納の扉もペナペナ、いかにも安普請といった印象です。

行きと帰りではまったく同じ飛行機に見えたけれども、多少違いがあり、行きの飛行機のシートは座面の奥行き寸法が明らかに小さく、離陸する前に既にモモと尻が痛くなった。
機内サービスはペットボトルの小さい水をくれただけで、あとは全て有料です。
短距離ならばこれでも良いと思うけれども、オーストラリアまではちょっと辛い!
先週金曜日の夜10時20分ホーチミン発、翌朝6時15分ダーウィンに無事到着しました。

2009年2月16日月曜日

麻薬密売人?

ダーウィン遠征からたった今帰還しました。

まあいろいろありました。
珍しい鳥がたくさんいましたが、オーストラリアの鳥はシャイなのか、なかなか写真を撮らしてくれません。
後日詳しく報告します。

2009年2月8日日曜日

ニャチャン

ニャチャンはベトナムの代表的な海のリゾートです。

ホーチミンから飛行機で45分程度。早朝6時の飛行機に乗るために4時起きです。
早起きした甲斐はあって、素晴しくきれいな海でした。これまで見た海の中でも最良の部類に入ると思います。
海の色はエメラルドグリーン、沖縄の海に似ています。熱帯魚が泳いでいるが透けて見えます。
予想以上に心地良いのでポタは控えめに60数キロに抑えて、あとはリゾート気分に浸っていました。
ビキニの金髪美女を満喫し、今年は黒いビキニが流行っているみたいです。

ベトナムのような貧乏な国でもリゾートはリッチな気分に浸れますね、日本の海水浴場はどうして、ああも貧困なのでしょう!

海に来たからには海の幸、二日間シーフードざんまい、最後は巨大なロブスターで締めてと!
あんまり贅沢したら帰りの空港までのタクシー代がなくなり、焦りました。

2009年2月2日月曜日

無事帰還しました

昨日の深夜、無事ホーチミンに帰還しました。
慌ただしい一週間でしたが、懐かしい皆さんにお会いできて、楽しいひと時を過ごせました。

ホーチミンはまだ正月モードが残っているのか、いつもより交通量が少なく、アオザイを着た女性も多く見掛けました。
それにしても暑い、昼間の暑さは半端じゃない。

ウクライナから帰国した時は浦島太郎の心境で、周りの風景に強い違和感を感じ、家に帰っても身の置き場が無い
ような疎外感がありましたが、今回はそのようなことがまったくなく、二三日の出張から帰ったような印象でした。
その逆も同じでホーチミンに戻っても、外国に来た実感が希薄です。
同じアジア人という親近感なのでしょうか?

ホーチミンもバイクさえなかったらいい街なのですが。
ホーチミンの人ほど愛想の良い人々を私は知らない。

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